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 昭和五十四年、小説山頭火「まだ陽のある脚」を発刊して以来、十六年間ずっと父の小説を愛読下さっている松崎書店河本哲宜様、河野主次様の熱意により、復刻版として再び陽の目を見ることとなりました。

父は昭和十六年山口県の俳壇の振興に努めてこられた高橋飄々子先生と鞠生句会を結成し、日夜先生と俳句を論じ俳誌「ちかや」に数多くの句を作りその輪を拡げていった。

それから昭和二十三年頃から異色の俳人山頭火に興味を持ち、山頭火の作品の真髄を追求するようになった。父は山頭火の影法師となり、山頭火の生涯を小説に書こうと決心した頃、防府市の文学者である柳星甫先生と村田桃源洞先生との出合いがあり、共に山頭火を研究することとなり、短律俳句の不思議な世界を説くことの良き理解者に恵まれ父の文学の道が開けて行った。その頃の父は本当に輝いていた、と同時に夢はどんどんと実現へと向かった。まさに虚無の世界を歩いた山頭火へと近づいて行き、ついにライフワークとして小説山頭火を書き上げた。自分の生涯をかけた一番の力作だと自負していた。

私が子供の頃から聞かされていたのは、いつかきっと山頭火が理解され山頭火ブームが来るだろうからそのためにも書かねばネ……と。

父が他界し七回忌も終え、今頃きっと草葉の蔭でホロホロ酔うて山頭火と歓談しているのではと……。娘は思う。

出版にあたり、書道家である富永鳩山先生に題字を頂き、父もきっとよろこんでいることでしょう。

浅 川 紀代美

 

再出版にあたり原文のままを忠実に復刻いたしました。

又田竹栖氏の作も含まれておりますが、ご了承下さい。

 

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兵隊清

 

その日の山頭火は、湯田温泉の近郊を行乞したが、秋晴れのせいかいつになく行乞運がよかった。
午前中に頭陀袋がずっしり重くなったので山頭火は、すこし足をのばして湯田の街に入ると、早速ラヂューム温泉に飛び込んだ。が、そのとき山頭火は、湯壷の中に人品骨柄の整った妙な先客を見た。
先客といっても昼時だったので湯壺は閑散で、入浴客はその男がひとりきりであった。
山頭火がいきなり湯壷に飛び込んだので、その波紋が、それまで眼をとじて陶然と湯に浸っていた男の顎の辺りをオーバーした。するとその男はちょっと上体をもたげて波紋を避けると、はじめて新来の山頭火を眼で迎えた。
自分の非礼をわびようとして山頭火は、男の秀れた容貌に眼を見はり、言葉を失った。山頭火同様に男は丸坊主だったが、眉が太くて濃い。が、眼が涼しくてやさしい。やや削げた双頬から下顎にかけて漆黒の美髯が垂れており、それが型のよい鼻翼から唇元へ流れる分別皺と調和していて、聖者の相貌を表していた。それに男の黒くて親しみ深い眼には、山頭火の非礼を咎めようとする嶮しさが見られない。血色のよい唇が美髭の中でひきしまって見え、年齢は五十歳くらいに思われた。
山頭火は、自分の山羊髪が急にみすぼらしく思われてきた。
男はまた下顎まで湯に浸り、なにかを瞑想するように、ふたたび眼をとじた。
山頭火は、自分の遠い記憶の中で、いちどこの相貌の人物を見たことがあると思い、それが誰であったか思い出せなかった。けれども山頭火は、その人物はある時代に自分の尊敬した人にちがいない、と思った。

 

 

 

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しばらく経って湯壷から上がった山頭火は、半月あまりの体の垢を、石鹸が使えないので、ゆっくり時間をかけて、ごしごし落しはじめた。
浴場内は三方が硝子張りになっているので、その玻璃窓は立ちこめる湯気で曇っており、それに映る丈け高い庭樹の緑が淡彩画のようにときおりゆれる。
山頭火はときどき美髯の男を盗み見たが、どうしても思い出せなかった。
美髯の男は山頭火には無頓着で、あくまでゆったり湯壷に浸っていて、ときどき眼を開いてはとじる。
(なんちゅう落着いた心境じゃろう。……)
十数年間の行乞と句道の行脚によって身につけてきた自負心が、妙にぐらつきはじめるのを山頭火は意識せずにはおられない。いまは山頭火は、むやみやたらに、たるんだ皮膚をこすりはじめた。そしていつもは長風呂の山頭火も、三十分あまりで湯から上がった。どうにも髯の男に位負がして、湯壷にいたたまれなかったのである。
ところが、体を拭いて山頭火が脱衣場の板の間に行くと、髯の男もすっほり湯壷から脱け出して、脱衣場にやってきた。
山頭火はそこでまた身のちじまる思いをした。湯上がりの血色がまるで青年のように髯の男の裸身にみなぎっていて、髯の男の人格をいっそう立派なものに見せるのである。
が、そのとき山頭火は奇妙な風景を見た。いくつにも仕切られた舛形の衣服入れの中から髯の男が無造作につかみ出した黒ラシヤの服とシヤツが、いまにも虱が這いだしそうに脂汗で汚れているのである。

 

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しかし山頭火を驚かせたのはそれだけではない。この人品骨柄卑しからざる髯の男が山頭火の眼前で被った兵隊帽であった。明治の遺物らしく、すでに顎紐は除れてをり、茶色のラシヤの生地もところどころ穴があいていて、そこだけ鮮やかにみえる縁の赤い兵卒帽である。
とたんに山頭火の眼に古い記憶がよみがえった。
(おお、そうだったのか。たしかに乃木将軍に似ている!)
ところが、この乃木将軍に似た奇妙な兵隊帽の男は、番台に入浴料を支払った山頭火が土間に降り立つのを待って、
「おいさん、一銭くれやんの」
と、山頭火の背後から声をかけた。
「おいさん?」
オオム返しに山頭火が聞きとがめて振り返ると、兵隊帽の男はそれが当然かのように、山頭火の眼前に血色のよい右掌を差し出していた。すこしのためらいも差恥もない澄んだ瞳が、むしろ少年のように甘えている。
「しようのないやつじゃ、清。ほれ、これをやろう」
番台の女将が子供でもあやすように、清の掌に五銭白銅を一ヵのせてやった。
山頭火もそれにつられて頭陀袋をまさぐり、五銭白銅を一ヵ清の掌にのせてやると、
「おおけに。……」
と、どちらにともなく言って清は、両人にくるりと背を向けると、こんどはいかにも軍人らしい姿勢で、戸外へ出て行った。
「ありやあのうた、兵隊清で通っちょる男で、ちょっとも悪さをせんのが、あの馬鹿の身上ですい」
なかば呆然と立っている山頭火の肩を叩くように女将は言った。まるで自分の子供でも紹介するような気安さが、女将の眼にもことばにもあった。

 

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しかし、どうにも納得できない思いで山頭火は、兵隊清の後を追って温泉浴場を出て行った。
湯田の本通りへ通じる横町の曲り角まで山頭火が来ると、兵隊清はそこの菓子屋の表で餡パンを買っているところであった。
「清よ、そら、ひとつ負けとくぞ」
菓子屋の若い主人は、紙袋に二銭パンを六ヵ入れて清に手渡した。
兵隊清は紙袋の中の一つをつまもうとして、その手をとめ、
「おいさん、おおけに、へじゃがおいさん、山口座に千両芝居がきとるけえ、はようゆきやんせや」
と言った。誰にでもおいさん呼ばわりをする親しさはあるが、話に糸口のない清のことばで、清は自分のことばにすこしも責任を感じていない。
清はくるりと菓子屋に背を向けると、なにかの目的でもあるように、紙袋を大事そうに抱いて、井上公園の方角へ歩いて行く。
山頭火は街角に立ってちょっと思案したが、なんだかこのまま清と別れがたい思いがして、すぐ清の後を追った。

山頭火は公園の入口まで来ると足をとめた。法師蝉の声が木立に満ちており、山頭火の立っているところに、背丈けよりすこし高い亀甲形の記念碑が立っていた。記念碑の真ん中に公爵井上邸跡と刻まれていて、その彫の深い碑文字に木洩れ日がつらつらと縞をつくって漂っている。
公園の芝生の中央あたりに薄鼠色の井上馨の銅像が反り気味の姿勢で立っていた。花嵩岩の台石ともに高さ四メートルあまりの巨像で、さすがに往時の威厳を見せて、秋日を照りかえしている。
が、山頭火の視線は、その銅像の足もとの芝生に散らばっている子供たちと、逸早く馴染んでいく兵隊清につながっていた。
子供たちはお河童の子をまじえる五人で縄跳びをしていたが、破れ靴にボロの兵隊服の清が近づくと、歓声を上げて清を取り囲んだ。


 

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清は世にもたのしそうな表情で、五人の子供たちに餡パンを請まれている。
清はしかし、餡パンを紙袋から入念に取りだして、間違いのないように一つずつ子供たちに与えた。そして彼も紙袋の中の残りの一つをつまんで口にした。
空っぽの紙袋が清の足もとに落ちるのが見え、その紙袋を、すぐ風が木立の中の池泉へ持っていった。
清はもう銅像の下の芝生に子供たちと並んで両足を投げだしており、ともに秋日に眼を細めて餡パンを食べている。が、彼たちのあいだには、別にパンを分けてもらったという表情もなければ、また分け与えたという表情もない。ただ黒ラシヤの清のズボンが子供たちのより図抜けて太くて長い。
この情景が山頭火の眼にしみて、山頭火は身うちの疼くほどたのしくなってくる。
(清は喜捨することを、ちゃんと心得ちょる。……それを清は意識しちょらん)
清の行動のそれは、結果からみれば惜みなく奪い、惜みなく与えるのであった。が、一見して矛盾のようで矛盾でないものが山頭火には理解できた。そして、なぜか口惜しさが足もとから胸に這いのぼってくる。俳文学の仲間たちの中では「昭和の芭蕉」と評価され、そのような人生を歩いてきた山頭火だったし、そのゆえに、それらの讃辞に甘えまいとして世俗の道を歩いてきたつもりの山頭火であったが、その卑怯なほど地味で、平面化した考えをもってしても、ここにこうして清と対決してみると、なお清と自分との間に距離感があって、山頭火はどうにも、それを否定できないでいる。
(なにかのことで清は白痴になったのであろうが、この乃木将軍に似ちょる清の振舞いはおよそ乃木将軍には似ていない。たしかに異質で真実があるが、いったい、その源泉はどこにあるんじゃろう)
たえ間なく法師蝉が鳴いた。初秋の風が樹々を揺り、花をつけはじめた稲田が木立の間に隠見した。
井上馨の銅像の頭上には、からりと晴れ渡った一枚の秋天があって、子供たちはまた縄跳びをはじめた。

 

 

 

 

 

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清は縄跳びには加わらないで、しばらく縄跳びを見ていたが、やがてむっくり起きあがると、それが癖の右手を上着のポケットに突っ込み、一方の手で美髯の中の皮膚を掻きながら、眩しげに秋天を見上げた。それから向きを変えると、破れ靴を引きずるようにしてまっすぐ山頭火の方にやってきた。そして公園の入口のところに立ったままでいる山頭火の前で立ちどまると、ちょつと首を傾げてから網代笠をのぞき込んだ。
清は山頭火を覚えていた。なんど会っても人懐い瞳である。
(こうして向き合って立ってみると、自分の方が背丈けだけは清より高い)
と山頭火は思った。
「おいさん、腹が減ったど……」
例の鼻にかかった甘えた声で清は訴えた。さすがに表情がよわよわしくて、清は下腹のあたりを両手で押さえてみせる。
「うむ、うどんを喰わう、清。それから稲荷ずしも」
山頭火は、はじめて清の名を口にしたことがたのしかった。
山頭火は清の眼へもういちど合点をしてから、井上公園に背を向け、清の先に立って歩きだした。
着衣をとうして膚にしみる秋日が両人の背にあった。山頭火は、清がばったばったと破れ靴をひきずって随いてくるのがうれしくてならない。人並に清を呼び捨てに出来たことや、乃木将軍に似ている清が自分に随いてくることが、背すじをくすぐられるほどにたのしいのである。
山頭火はふと、故郷の秋祭に、よく自分の後になり先になったりして随いてきた息子の健のことを思いだした。酒ばかり飲んで父親らしいことは何ひとつとしてしてやれなかった自分を、父親と思えばこそ随きまわった健を、そのころの山頭火はどんなに不憫に思ったか知れない。そして、その健も秋田の鉱山学校を卒えて、鉱山技士として大陸に渡っており、ときおり乞食坊主の父に送金してくれるのであった。不運な妻のサキノが女手ひとつで育て、鉱山学校を卒えさせたことすら異数なことなのに、その子の健が自分を忘れずにいてくれるのだ。

 

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父と子の血のつながりの酷烈さが、清の先に立ってあるく山頭火の腰に、なんども爪を立てた。
「おいさん、あすこに、あるど」
本通りからすこし入り込んだ路地を清は指さしていた。
ふりかえって清にかるくうなずき、本通りを横ぎって行く山頭火の右手は、頭陀袋の中の銅貨をまさぐり、それを算えていた。
間口が一間半あまりの軒廂いっばいに、うどん・すし・酒肴などの髯文字を羅列したペソキ塗りの横看板が掲げてあって、山頭火にはいくどもここの紺暖簾をくぐったことのある一パイ屋である。
「こんち……は」
おかみ
威勢よく清が入ってきたので、一パイ屋の女将は肥った頬をこわばらせた。が、清のあとから顔馴染の山頭火が入ってきたので女将は、途端に表情をやわらげた。
店には先客が三人いた。地回わりの博徒らしく、いずれも総絞りの兵児帯を胴体に巻きつけており、彼たちは上り端の三畳で食卓を囲んでいたが、山頭火と清が入ってくると、一斉にじろりと睨みをきかせた。
が博徒たちは、新来客の一人が兵隊清であることに気づくと、
「なんじゃ、清か」
と言って、一様に苦笑した。それからそれを潮刻のように、勘定を払い、あたふたと店を出て行った。
それを待って山頭火は、
「おかみさん、うどんと稲荷ずしを二人分。それから……」
と、傍らの清をかえりみて、盃を干す真似をしたが、清が兵隊帽の頭を横に振ったので、
「酒はひとり分でええですい」
と言った。
女将は二重顎をしゃくって合点すると、調理場へ去って行ったが、すぐ土間の長台に稲荷づしと茶を運んでくると、
「おうどんは、すぐこしらえて持ってきますから」
と言って、また調理場へ去って行った。
清はお辞儀なしに、真っさきに稲荷ずしをつかんでいて、およそ美髯にはふさわしくない乱暴な食べ方をする。そのため三角の油揚が破れて、中味の飯粒が長台のうえにこぼれ落ちると清は、いそがしそうに口をうごかしながら一方の手でその飯粒を器用にひろって食べる。
山頭火は酒の燗がつくのを待つあいだ、清と肩を並べて稲荷ずしを食べながら、片手は、また頭陀袋の中の銭をかぞえていた。

 

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連載小説ガイド
まだ陽のある脚

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08-04-01・・・千人針

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08-02-04・・・兵隊清

07-12-06・・・其中庵の句会

07-10-31・・・花街の灯

07-09-16・・・俳壇の潮流

07-6-13・・・
阿蘇から高千穂峡へ―― 行迄第一歩

07-04-16・・・其中庵

07-02-10・・・「 聖酒徒」

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又田竹栖著
ここでご紹介する著書は、私の父、又田竹栖が著した、俳人、種田山頭火の小説です。山頭火の真実に迫る貴重な小説だと思います。皆さんどうぞご愛読ください。

       又田竹栖の娘  浅川 紀代美
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