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 昭和五十四年、小説山頭火「まだ陽のある脚」を発刊して以来、十六年間ずっと父の小説を愛読下さっている松崎書店河本哲宜様、河野主次様の熱意により、復刻版として再び陽の目を見ることとなりました。

父は昭和十六年山口県の俳壇の振興に努めてこられた高橋飄々子先生と鞠生句会を結成し、日夜先生と俳句を論じ俳誌「ちかや」に数多くの句を作りその輪を拡げていった。

それから昭和二十三年頃から異色の俳人山頭火に興味を持ち、山頭火の作品の真髄を追求するようになった。父は山頭火の影法師となり、山頭火の生涯を小説に書こうと決心した頃、防府市の文学者である柳星甫先生と村田桃源洞先生との出合いがあり、共に山頭火を研究することとなり、短律俳句の不思議な世界を説くことの良き理解者に恵まれ父の文学の道が開けて行った。その頃の父は本当に輝いていた、と同時に夢はどんどんと実現へと向かった。まさに虚無の世界を歩いた山頭火へと近づいて行き、ついにライフワークとして小説山頭火を書き上げた。自分の生涯をかけた一番の力作だと自負していた。

私が子供の頃から聞かされていたのは、いつかきっと山頭火が理解され山頭火ブームが来るだろうからそのためにも書かねばネ……と。

父が他界し七回忌も終え、今頃きっと草葉の蔭でホロホロ酔うて山頭火と歓談しているのではと……。娘は思う。

出版にあたり、書道家である富永鳩山先生に題字を頂き、父もきっとよろこんでいることでしょう。

浅 川 紀代美

 

再出版にあたり原文のままを忠実に復刻いたしました。

又田竹栖氏の作も含まれておりますが、ご了承下さい。

 

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花街の灯

 

頸筋に冷めたいものを感じて山頭火は眼を覚ました。眠っているあいだに、どのような思いに誘われてにじみ出た涙なのか、自分にもわからない涙の粒が下瞼のくぼみにたまっていて、それがちょっと上体をくねらせると頬をつたい、くびすじに流れおちて悲劇的な線を引くのである。
山頭火は仰臥したまま掌で頬の濡れをぬぐった。それから辺りを見まわして、自分の存在をたしかめた。
たしかに女郎部屋の四畳半の中にいた。そして赤い友禅の夜臭の中にいる。枕もとの半床の壁に赤茶けた半折の軸物が懸っていて、その山水画の下半分を派手な朱塗りの鏡台がかくしていた。
雨戸を閉めていないとみえて、夜風に障子がカタカタと音を立て、その三枚の障子がわずかに戸外の闇を遮断している。
妓は山頭火の傍らで、まったく世にも安らかな寝息をたてていた。意外にも寝顔が美人である。ただ顎が細くて、鼻筋も細く、狭い額からうける感じが薄幸の相である。
(しかし、この女は、乞食坊主の自分を、まるで愛人のようにふるまってくれた。……)山頭火は夜具の中で頬を赤らめ、ここに来るまでの経路をたどっていた。
冬村と山頭火が一杯機嫌で湯田の温泉街にたどり着いたのは、すっかり日が暮れてからであった。小郡と山口との中間にある、どちらかといえば山口の街に近い湯田の温泉街は、整備された街路が散水してあって、そのぬれた舗道に映る湯の町の灯が眼の覚めるほど綺麗で、どの旅館もそれぞれ落着いた庭園をもっていた。そうした旅館街を西へ三丁あまり出外れた田圃の中に、そこの闇だけを朱の色に染めて、一画を区切り、遊廓街があった。

 

 

 

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が、花街といってもわずかに並行する二筋の通りで形成されているにすぎない色街である。しかし、すでに気どった若者たちや丹前着の湯治客が軒灯にぬれそぽれて、さまよっていた。
「あら、あきれた坊さんだわ、宵の口から縁起でもない」
客引きのために張店を離れて戸外に出張っていた妓たちは、あわてて山頭火や冬村の傍らから離れた。
「ちょいとちょいと、変な坊主が来たわよ、おじいさんの」
一軒置いて「梅福楼」とある軒灯の下でも、眼ざとく山頭火をみとめた妓たちは、いそいで屋内に走り込むと、張店の妓たちにそれをつげた。
しかし、ほろ酔の冬村はこの妓たちの狼狽ぶりを喜んだ。そして彼は、キャッキャッと声を上げて逃げまわる妓たちに取りすがったり、抱きついたりして坐山戯かかった。
酒のうえとはいえ、この冬村のふるまいには触れるものを引き裂くような狂暴さがあって、さすがの山頭火も眉をひそめた。だが、冬村と同様に山頭火も一杯機嫌である。羊葵色にあせた法衣に下駄履きなので、歓迎されない気安さもあって、にこにこと山羊髪をしごきながら、冬村のあとに随いて行く。
ふたり
さすがに顔馴染の冬村の先導なので塩は撤かなかったが、妓たちはどこまでも両人を警戒して、寄りつこうとしない。
いつか宵が夜になって、戸ごとの赤や青の軒灯が花街の雰囲気を濃くしていったが、ようやく山頭火には、どこまで行っても自分たちが歓迎されないことがわかってきた。
(黒羽二重の法衣に水昌の数珠ならまだしものこと、こんなに色あせた法衣に伸びるにまかせた山羊髪では、どうにもならん。……)
女郎屋はあと二軒しか残っていなかった。その残りの二軒も、すでに両人のことが伝わっているとみえ、表にも張店にも妓たちの姿は見あたらなかった。ただ最後の女郎屋の玄関横に、芽を吹いた糸柳が流られたように整然と垂れている。
蹌蹟とそこまでやってきた山頭火は、枝垂柳の五、六本を束にしてつかみ、よろめく重心を支えた。それから山頭火は四辺をゆっくり見まわしたが、やはり、どこにも妓たちのいる気配がなかった。

 

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赤い軒灯に照らし出された地面に風を失った糸柳の影があって、その糸柳の影とかさなる山頭火の影が、こくりと合点した。そして、そのときになって山頭火の口辺に苦笑がわいた。腹の底から込みあげる自嘲であったし、ひとつの危機を逃れたことへの苦笑でもあった。
しかし冬村は、すっかり腐っていた。なかば酔いの覚めかけている彼の眼ざしは、妓たちへの憤りに変っていて、見えない相手に向って血走っていた。
「おーい、こらあ、誰もおらんのか。銭ならなんぼうでもあるぞ、出て来い!」
最後の家の玄関の柱を蹴りながら冬村は、居丈高に怒鳴った。
その怒声に応えるかのように、そのとき一人の妓が糸柳の下をすべり出ると、ぴたりと山頭火に寄り添い、背後からやわらかく山頭火を抱きしめた。それから彼女は、すこし鼻にかかった声で、
「あたい、お坊さんの好きですとばい」
と言って、いっそう強く山頭火を抱きしめた。
男のように濁った妓の声であるが、山頭火には懐しい肥後弁である。
意外なことになったという思いは山頭火よりも、冬村のほうが強かった。
「うむ、先生もてるぞ。もてるぞ先生」
一変した事態に冬村は、山頭火の手をとって駄女っ子のようによろこび、強く振った。
山頭火は冬村の眼にきらりと光る涙のようなものを見て、ちょっと好転した事態にたじろいだが、すでに妓と冬村に左右から手をとられていて、いまは御殿にでも上がるような気持で、女郎屋の梯子段を上って行った。
妓はまだ眠っていた。なかばむきだしの右の腕があくまで白くて、その小肥りの体温が安らかな寝息とともに、山頭火の老躯につたわってくる。

 

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(態本県もすぐ向うに天草の見える日奈久の、漁場の生まれと言っていたが……)
山頭火には、どうしてこの妓だけが自分に親切だったのか、いまもってわからない。
(もしかしたら、泥んこの人生を歩いてきたという共通感が、この妓のどこかにあったのかも知れない)
いずれにしても他の妓たちが姿を消してしまうほど嫌った乞食坊主に対して、しばらくの間でも善意をみせてくれた娼婦のいたということは、山頭火のこれまでの人生の埒外にあった事である。
(あたい、お坊さんの好きですとばい)
糸柳の下での最初の言葉どおり、約束をはたした人の好さが妓の寝顔にあって、彼女はときどき何かを眩いた。
およそ娼婦に対する愛情など考えるだけ滑稽だった。だが妓の善意の呼び覚ます感傷と寂蓼とが一つになって生みだす悲哀が、山頭火の胸にあった。だから山頭火には、彼女が肥後国の漁村からこの土地に流れてきた事情とその過程が簡単に想像出来たし、その事情も、それほど同情に価するものでないようにも思われた。
山頭火はふと、こんなことを考えているいまは、何時ごろだろうかと思った。
(乞食坊主でも坊主に変りはない。いかになんでも法衣を着けたままで、日中の女郎屋からは出て行けない。夜が明けきらないうちにここを出なくては)
帰心が不意に山頭火の胸を噛みはじめた。が、四隣は寝静まっていて、廊下つづきの部屋ごとで肝声が流れており、どうにも時間を知る方法がなかった。
なかばあきらめかけた山頭火は、もう暁け方近くかも知れない、と思った。季節はちがっていたが山頭火は、十二年前の明け方近くに妻子と別離したのである。
「ええ、仕方がありませんわ」
突然の夫の申し出に対してサキノは、眉ひとつうごかさずに、短かく、しかしはっきりこたえた。
予期していた妻のことばであったが、見事なサキノの断念の言葉に山頭火は、妻の態度を立派だと思った。

 

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三坪に足らぬ裏庭に白萩のひとむらがあって、その白萩に灯をふくんだ無数の露の宿っているのが見え、その辺りからも朽ちかかった縁の下からも、明け方ちかくに鳴く虫の音がリンリンとわきあがってくる。
そよりと白萩のひとところが微風に解け、白露の一聯が葉末をこぽれ落ちるのが見えた。
「健は、どうする。……」
そのときになって山頭火は、一人息子の健のことを訊ねた。
「わたくしが、学校にやります」
言下にサキノはこたえて、あえて真正面から山頭火と眼を合わせた。事務的なと思われるほどサキノの言葉は端的である。が、その短い言葉のもつひびきには寸毫の反省もさしはさめない熟考ののちの決断の厳しさがあった。
ぐっと咽喉に疾のつまった思いで山頭火は、返すことばが見あたらない。曲りなりにも十六年間を両人で紡いできた夫婦模様は寸断されてしまい、それにかわる寒女どした孤独感だけが、向き合った両人の眼にあった。もちろん山頭火は、この不幸のことごとくが、きょうまでの自分の無軌道さにあることを自認していたし、それを責められても悔いあらためる自分でないことも知っていた。だから山頭火には、きたるべくしてやって来たという別離の実感があって、むしろ遅すぎたかの感じさえする。
サキノはもはや一切を解決したつもりらしく、ふたたび夜具にくるまったが、さすがに山頭火へは背を向けず、上体を枕に押しあてると、顔のうえまで夜具を引きあげた。山頭火は夜具の端からのぞいている油気のないサキノの頭髪を見て、サキノは泣いているのかも知れない、と思い、そうでないことをねがった。
山頭火はひとわたり住みなれた部屋を見まわしてから、土間に降り立ち、ゆっくり時間をかけて地下足袋をはくと、ちょっと妻の寝姿を振りかえってから暁暗の初秋の風の中に出て行った。

 

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(あれからもう十二年になる……)
と、山頭火は思った。そして不意にサキノがいとおしく思えてきた。
実際には激越なものであっても、思い出は湖底のように静かに、夜の女郎部屋の障子の穴からでも入ってくる。
(なにごとにも不死身で、気強いサキノであった。……)
遠い野のはてで一番鶏が鳴いたように思われて山頭火は耳を澄ましたが、鶏鳴はそれっきりであった。夜明けまでにはまだ時間があるらしく、田園の闇を隔てる三枚の障子に迫まる外気には、もう季節のきびしさはなかった。ただ森沈とした静けさが障子紙の白さに、音もなくにじんでいる。
山頭火は、冬村がこの花街のおなじ屋根の下のどこかで、彼の妻とは別の女と眠っていると思った。そしてふたたびうとうとしはじめた夢心地のなかで、
(冬村は好い男じゃ)
と思った。
山頭火がふたたび眼を覚ましたときは、花街の軒端には雀のさえずりが散らばっていて、障子ににじんた一夜の春の闇を、無残にも朝の光りがはぎとっていた.
其中庵の朝とすこしも変らない春暁であったが山頭火には、女郎部屋の障子の桟が牢格子のように思われはじめて、いたたまれなくなってくる。が、花街の朝は一般の家とちがって真夜中にもあたることに山頭火は気づいた。むろんどこにも雨戸を繰る気配はない。傍らの妓もまだ深い眠りの中にいる。
山頭火は、しばらく妓を起したものかどうかに迷った。が、山頭火は意を決して妓をゆり起すと、帰意をつげた。それから、
「あの男(冬村)は、そのままにしといてくれ」
と言った。
「よかですたい」
妓は上半身を起して眼をこすりながらこたえ、こころよく山頭火の申し出を容れた。妓の身代が先払いだったからでもあるが、どこまでも男本意の妓である。

 

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彼女は朱い友禅の夜着の体に手早く伊達巻を締めると、そのままの姿で山頭火の先きに立った。
どの部屋の前でも疲れた男女の軒声が流れていた。両人はまるで駈け落ちでもするように足音をしのばせて、それらの部屋の前を通りぬけると、突きあたりの階段を降り、階下の長廊下をやはり忍び足で通りぬけ、やっと土間に降り立った。
妓はそこで振り返ると、眼で山頭火に抱擁をもとめた。
山頭火はちょっと照れたが、矢のような帰心を押さえ、虫を殺して妓のもとめに応じた。すると、途端に妓は上機嫌になり、いそいそと玄関横の潜り戸を開けて、そこから山頭火を送り出してくれた。
朝の外気にふれると一時に開放された悦びが山頭火の全身を包んだ。山頭火はそのまま後も見ずに、夜露にしめった土を踏んで十二、三歩行ったが、微風にゆれる糸柳の下まで来たとき、
「ちょっとう」
と鼻にかかった妓の声に法衣の背をつかまれていた。
山頭火はぎくりとして立止まり、首をすくめて振り返ると、妓は潜り戸のところに立って見送っていたが、むきだしの襟元をあわせて親愛のしぐさを見せながら、例の男のように濁った声で、
「近いうちに、また……ね」
と言った。
山頭火はぶるぶるっと身ぶるいすると、くるりと妓に背を向け、前屈みの姿勢で、駅の方角に向って歩きだした。

 

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連載小説ガイド
まだ陽のある脚

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08-04-01・・・千人針

08-03-04・・・流星

08-02-04・・・兵隊清

07-12-06・・・    其中庵の句会

07-10-31・・・     花街の灯

07-9-16・・・     俳壇の潮流

07-6-13・・・
阿蘇から高千穂峡へ―― 行迄第一歩

07-4-16・・・・       其中庵

07-2-10 UP ・・・   「 聖酒徒」

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又田竹栖著
ここでご紹介する著書は、私の父、又田竹栖が著した、俳人、種田山頭火の小説です。山頭火の真実に迫る貴重な小説だと思います。皆さんどうぞご愛読ください。

       又田竹栖の娘  浅川 紀代美
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