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聖 酒 徒
パシッ! と背後で平手打ちの爆ぜる音がして山頭火は、自分の頬を叩かれた思いで振り返った。同時に待合室の眼も一斉にその方角を振り向いていた。 一方の手で撲られた頬を押さえ、一方の手で六歳くらいの餅の筒袖を着た男の子の手を引いた女は、よろめいて、駅の待合室も入口のところのベンチに腰を落した。が、彼女はつぎの平手打ちへの盾にするように、急いで子供の体を引き寄せ、抱きしめた。色あせて小菊模様がはっきりしないメリンスの着物の、肩のあたりがひどく尖づている女で、削げた横顔が二十七、八歳に見える。 男の子は久しく散髪をしないとみえ、赤茶けてうす汚れた頭髪が耳に垂れかぶさっており、突然の父の暴力に泣き声も立てずに、母親の腕囲いの中でふるえている。 女の夫は両手を拳骨にして、自分にあつまった四囲の眼に反抗するように、無言で突っ立ったまま、改札口をとうして見える三番フォームの方角を睨んでいた。 両膝とも継ぎの当っている紺サージのズボンが、男の現在の窮乏を簡単に四囲の眼に了解させはするが、なぜこの男が女を撲らなければならなかったかは、誰の眼にも納得出来ない。 「どうしたんでしょう」 「さあ……」 行商人らしい隣の男の問いに山頭火は、口ごもった。 「夫婦もんらしいですね」
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「そうらしいが、なにもこんなところで、夫婦喧嘩をせんでも」 待合室のあちこちで、ささやきが起った。 男の子の頭髪に寄せていた女の頬が、耳の付根まで赤くなっていた。いかにも歯を食いしばった感じである。夫のつぎの平手打ちは避けることが出来たが、四囲の眼を避けることが出来ないのだ。 「佐助!」 女は鋭く言って立上がると、素早く男の子の手を引き、急いで待合室から出て行った。 四辺が急に白じらしくなった。母子の出て行つたあとの待合室の入口がぽっかり口を開いており、そこまでとどく日射しの中でうす埃が舞っている。鍛帳の降りたあとといった感じで、待合室の緊張感はようやくほぐれはじめた。 が、山頭火の眼からは、母の手に引かれて小走りに出て行った小さな草履の、白と黒の紙の鼻緒の色がどうにも消えない。二日間の行乞をおえた山頭火が小郡駅(山陽線)に降り、そこの待合室で小憩をとっているあいだの出来事であった。 山頭火は膝の上の網代笠をとってかむり、すこしずれた眼鏡の位置を直してからふわりと立ち 上がると、手荷物ひとつない気安さから、ゆっくりした足どりで待合室を出た。右手で錫杖を突 ずだぷくろきんちやく き、左手は頭陀袋の中の、二日間の行乞で得た銅貨のぎっしり入っている巾着を握っている。 外は快晴で、青いペンキ塗りの駅舎いっぱいに早春の日ざしがただよっていた。 山頭火はちょっと眩しそうに駅舎の屋根を仰いでから、成算のある面持ちで、建物にそって母子の後を追った。 山頭火の足はしかし、駅舎の壁のつきたところで立ち止った。駅前の広場が漏斗形にすぼんでいて、そこから小郡の一筋街がはじまっており、その街角の一点に山頭火の視線はつながっていた。低い軒廂いっぱいに垂れる縄暖簾と等身大の紅提灯がそこにある。 |
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なにかの厳しゅくなものに触れたように、網代笠の中の山頭火の表情は一変していた。すでに山頭火の額の中でコップ酒がゆれており、その芳醇な香が足もとから容赦なく咽喉もとへ攻めのぼってくる。 山頭火は踵をめぐらすと、駅前の広場から逃れるように、其中庵(彼の茅舎)への道を歩きだした。先刻の母子が駅舎の東裏側の日だまりに屈んで跼んでいるはずであったが、山頭火はその母子の運命に背を向けていた。 「お天気じゃす」 通りすがりの誰かが声をかけたようであったが、山頭火はわずかに網代笠を傾しげただけである。 さすがに紅提灯の前を足早に通りすぎていた。農村相手の町だけに街路は閑散で、すぐ本通りがつきて国道に出ると、四辺が開けて田園に変った。東は県庁のある山口に通じ、西は宇部、小野田、厚狭を経て下関へつながる国道である。 山頭火は足をとめると、いつものようにちょっと網代笠の廂を持ちあげ、山口の方角へ瞳を転じた。早春にはすこし早いうす霞が棚引いていて、国木田独歩や嘉村礒多の愛着した方便山は見えなかったが、それに連なって紫の起伏をくりかえす山脈に中学時代(山口中学校)の思い出が重なって、山頭火には、もう何度目かの眼にしみる風景である。 山頭火は網代笠の位置を直すと、其中庵のある西方の山麓に向って歩きだした。あくまで日ざしが明るくて、山頭火の背には法衣をとうして泌みる日の温みがあった、 (歩きながら考える癖がついて、もう何年になるだろう……) と山頭火は思ったが、すぐには歩いてきた行乞の年月が指折れなかった。 |
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「
昭和の芭蕉にゃあ、家庭ちゅうもんに縁がなかとたい。じゃから佳か句が生まれるとばい」 妻子を捨てて九州路を行乞していたころの詩友たちの慰めの言葉であったが、それは九州路だけでなく、全国の詩友たちの山頭火への声援の言葉でもあった。酔うと路傍に寝ころんだりした十二年とも言えるし、なぜ妻子を捨てなければならなかったか、の反問を背負って歩いた十二年とも言える。そしてその反問は、なぜ妻を撲らなければならなかったか、の先刻の待合室の男の頬骨につながっていて、それはそのまま不況のどん底にあったそのころの世相にもつながっていた。 いきなり救われない人生への思いが山頭火の胸を噛みはじめた。 山頭火は急いで町外れにある飲食店の紺暖簾をくぐると、すぐ酒を注文した。山頭火の頭陀袋は二日間の托鉢で得た米と、銅貨の入った巾着とでずっしり重い。それに先刻の母子から遠退いた安易さもある。 昼間なので店は閑散で、店先には人絹の矢耕の銘仙を着た十七歳くらいの小娘がいて、彼女はキャラメルをしゃぶっていたが、すぐ山頭火の注文に応じた。 最初のコップ酒が長台に運ばれたが、串刺しの関東煮を二本ほど載せた小皿がはこばれるまでに、そのコップは空になっていた。 小娘は心得たもので、すぐ空のコップに酒を満たしてくれる。が、山頭火は小娘の見まもる中でそれをひと息に飲み干した。何バイ飲んでも咽喉に焼けつくような酒で、山頭火は如才なく小娘の注いでくれるコップ酒を、立てつづけに五ハイほど飲み干していた。意識がスクリーンに拡大された映像のようにはっきりしていて、先刻の拳骨を固めていた男の姿が、消しがたい姿で山頭火の額に歩み入ってくる。 |
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「もう一パイ、こんどは焼酎をたのむ」 「しょうちゅう……ですか」 またキャラメルをしゃぶっていた小娘は、ちょっと小首をかしげてから、焼酎を満たしたコップを盆にのせて持ってくると、こんどはそのまま山頭火の前の長椅子に腰をおろした。 六坪くらいの店の土間で、太い青竹でカウンターをつくった粗末な台の上に、空徳利が十二、三本林立していて、そのかたわらに紅梅の鉢が置いてあった。花はあちこちに残っていたが、あまり手入れをしないとみえ、ひどく汚れた感じである。 「お坊さん、他国の人じゃないのね、言葉でわかるわ」 ホイト坊主で通っている山頭火には、お坊さんと親しく呼ばれるのは、態本の味取観音堂以来のことである。山頭火は小娘を前にして、急にたのしくなった。 「わしゃのんた、この小郡のもんじゃいの。ほら、ここからでも見えるじゃろう、あの山の麓の、矢足ちゅうとこに住んじょるンじゃいの」 藁葺家の草庵とまでは言わなかったが、山頭火は破璃窓から西方の山麓を指さした。それから色あせて羊羹色になった法衣をかえりみて苦笑した。 「それじゃお坊さん、この土地の生まれね。うちゃあ、三田尻の生まれなんよ。三田尻にはお母さんがいるんよ。それから弟たちも……」 急に言葉がしめりをおびて、小娘は不意に黙った。 「ほーう、三田尻の生まれかの、あんたは」 山頭火はあらためて小娘の狭い額を見なおした。 |
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「ええ、去年の暮れにこの店に来たんよ。うち、家のために、ここで働いちょるんやけど、たまには三田尻に帰りたいわ、お坊さん、三田尻のこと知っとる。行ったことあるの」 「ああ、知っちょるとも!」 自分でもおどろくほどはっきり言って、こんどは山頭火が押し黙った。 「あら、どうしたの、お坊さん」 小娘はびっくりして、急変した山頭火の顔をのぞき込むようにしていった。 が、山頭火は、 「もう一パイ、焼酎をたのむ」 と言って、空のコップを差し出し、小娘の口を封じた。 小娘は釈然としない顔つきでカウンターの方に行き、こんどは一升入りの焼酎瓶を提げてもどってくると、卓上のコップに溢れるほど注いでから、そのときになって山頭火の異状さに気づき、またカウンターの方へ去っていった。 山頭火はひとりになると、ひと口飲んでからコップを卓上にもどし、それをじっと見つめた。 コップの中では透明な焼酎がゆれて、それにうかぶ故郷の三田尻の山河がゆれている。 |
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この田園に囲繞される街の真ん中を、東西に山陽本線が貫流していて、山頭火の思い出の中では、ときどき列車が噴煙を残し、汽笛の余韻を引いて去った。 街の北の背後に天神山がある。その摺鉢形の山腹に菅公を祀る壮大な宮居がそびえていた。老松の間に朱塗りの建造物が隠見し、この壮麗な景観は、上り下りの列車の窓からも手にとるように望見され、旅行者の無縁の眼にも、ふと、千年前の風韻と風姿を想い起させた。‐‐呼称して、防府天満宮がそれで、北野天神・大宰府天満宮とともに天下の三大天神として知られていたし、中国地方におけるただ一つの菅公由縁の景勝地でも知られる。 この小高い菅社からは市街の全景が望見された。それに明け暮れ街の甍の涯てに瀬戸の海がかがやいて、このおだやかな内海は布街の裾ふかく入り込んでいた。 小郡駅から東へ三つ目の駅である三田尻駅とよぶ小娘の故郷の街が、山頭火にとっても故郷の街だった。また山頭火が生まれながらに暗い運命に寄り添われた街でもある。 山頭火にとって故郷の街での不幸は母の自殺にはじまっている。酒におぼれ、妻子を捨て、行乞十二年の雲行流水の日々がようやく身につきはじめた山頭火にとって、五十歳のいまも、なおつきまとう暗い思いは、小春日の年下り刻を、変死体となって裏庭の井戸に浮び上った母の姿に感じた少年の日の記憶である。 |
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が、山頭火のその暗い思いは、それからの四十年のあいだに何度も変貌しており、もっと暗く、複雑な思いに変っているのだ。父の女漁りに反抗して自殺した母の気持が不幸であったのか、このような一途な母の性格から逃れて女遍歴をつづけた父の気持が不幸であったのかの、この愛憎のけじめがはっきりしないところに、現在の山頭火の暗い思いがある。むろん父の竹治郎の女漁りに抗議して自殺した母の不幸を哀しみ、一時は父に反抗心を抱いたことは事実である。が、それは少年期だけのことで、早稲田大学に入学して以来の彼の気持はかなり変っている。むしろ母の自殺のために村の人望を失い、佐波村の助役を辞めて没落を急ぐ過程の中で老いさらばえてゆく父の姿が、一滴の酒も飲めない男だけに不憫に思われはじめて、父にそんな辛目をみせた母の行動が軽卒だったように思われはじめたものである。彼の早稲田大学中退も、種田家の行詰まりで父の送金が遅れがちだったことにもよるが、ひとつにはこうした肉親愛への疑問が彼を神経質にし、向学心を喪失したことにもなる。当時、十一歳だった山頭火(本名種田正一)は、母の自殺した日は近所の腕白仲間を集めて、裏の木小屋であそんでいた。 木小屋は畑つづきの広い裏庭の隅にあった。彼等のあそびは芝居の真似事である。 木小屋の入口には、板切れや柴の葉などで小さなお堂とも祠ともつかないものがしつらえてあって、子供たちはその祭壇の前にひざまずづいて、青竹に紙片を挾んだものを打振って「祓いたまえ、浄めたまえ。……」と唱和していた。去年の秋の村祭の芝居で、旅役者の演じた「岩見重太郎狒々退治」の場面のつもりである。人身御供の犠の庄屋の娘役が神田の和ちゃんで、その身代りとなって狒々を退治する重太郎役が正一で、その他大勢の百姓に扮する子供たちがいた。 「はらいたまえ、きよめたまえ」 しだいに唱和が高まってゆく。 そのとき、木小屋の反対側の庭の隅で不意に大人たちの叫び声が起り、同時に足音が乱れはじめた。 |
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「誰か、早う、綱を持って来い。早うせにや、綱を早う!」 近所の大人たちの叫び声で、声も足音もひどくあわてている。 お堂の中で沸々に扮していた子供が真っ先に木小屋を飛び出していた。 「こらこら、子供たちゃ来ちゃいかん!猫が落ちたんじゃ、あっちへ行け」 大人たちは井戸の周りに人垣をつくっていて、一斉に眼をむき、集ってくる子供たちを手を上げて制し、追い退けた。 種田家の女中のお菊が二男の次郎の手を引いて、おろおろしながら、人垣の背後で泣きだしそうな顔をしている。 正一は母を求めて勝手元に走り込んだが母はいなかった。いそいで奥座敷に行ってみたがいない。渡り廊下を走って、離室に行ってみたが、そこにも母の姿は見あたらなかった。 父は役所を休んでいて、三日前に家を出たきり帰らないのである。 正一はもう、おろおろしながら、 「お母さん、お母さん!」 と叫びつづけた。
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小郡の街に灯がともるころ、山頭火の頭陀袋は軽くなったが、紺暖簾を分けて出た彼の足どりは重かった。 もう街はつきていた。四、五寸のびた青い麦田の上を冷めたい夜風が流れる。遠い中国山脈の上で春星がまたたいた。網代笠の廂の中では山ふところの農家の灯がひどく美しくて、その灯りのひとつが山頭火の額の中でくるくる回り、ふと路上の小石につまずいて倒れた山頭火の体は一転してから、なにかの雑草をつかんだが起き上がれない。山頭火はそのままイビキを立てはじめた。 |
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まだ陽のある脚 |
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08-04-01・・・千人針
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08-02-04・・・兵隊清
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07-6-13・・・阿蘇から高千穂峡へ―― 行迄第一歩
07-4-16・・・・ 其中庵
07-2-10 UP ・・・ 「 聖酒徒」
