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三田尻御茶屋(英雲荘)
平成19年7月1日


1776年 第7代萩藩主、毛利重就(しげたか)は、1654年第2代藩主、毛利綱広が新築した「御茶屋」を改築し、1783年には移り住み、1789年死去するまでここですごしました。
重就は防長四白(紙・ろう・米・塩)をはじめとする産業の開発を進める中で、防府に大浜、鶴浜、勝間開作、西浦浜を干拓してその地に広大な塩田を築くとともに、塩業振興のための中関の建設を行うなど、防府の産業発展に力を尽くしました。
(昔の建物写真)
1939年(昭和14年)御茶屋は防府市に寄贈され、重就の法名「英雲院殿祐山如靖大居士」(えいうんいんでんゆうざんにょせいだいこじ)にちなんで命名されました。
「大観楼」
1851年 第13代萩藩主、毛利敬親(たかちか)は、老朽した部分の解除、間取り変更等の大規模な改修を行い、総室数は53室に及びました。2階の間から望む波静かな三田尻湾、瀬戸内海の景観はすばらしく、建物は「大観楼」と称されました。1863年8月京都の政変の難を避けた三条実美(さねとみ)ら七卿が来訪した折には、大観楼が宿舎に充てられ、勤王の志士たちが来訪したときもここに身を寄せていました。
二階の雨戸を開けると、三田尻湾、瀬戸内海の景観があるはずでしたが、写真中央の協和発酵の煙突、その隣の研究所建物、そして、まち並みくらいで、三田尻湾、瀬戸内を見ることはできません、わずかに一馬本店の煙突が昔の名残でしょうか。
「花月楼」
毛利重就は当時傾きかけていた藩の財政を立て直し、中関を大規模に開発して「三田尻浜」を赤穂に次ぐ塩業地に築き上げるなど、行政面でたいへんな辣腕家でした。一方で、和歌、書、絵、茶、陶芸の道に精通した文化人でした。特に茶道については、江戸千家の祖、川上不白(ふはく)に師事し、藩内にある別邸のそれぞれに茶室を造ってしばしばお茶をたて、茶碗や香合(こうごう)を自作、その出来栄えは玄人はだしで、歴代藩主のなかでも一番の茶人でした。
茶道に大きな関心のあった重就が遺した茶道関連の遺産の中で、もっとも大きいものが三田尻御茶屋(英雲荘)に造った「花月楼」です。
多くのお客さんを招いてのお茶会での部屋、一段上がったところに座敷があるのは珍しい造りとか。
現在、次の国体までにと、建物の改修が進んでおりますが、庭園の改修計画がないようです。防府市民の皆さんの大きい声を国に届けてください「庭もきれいにしてください」と、その声の大きさが国を動かすのでしょうから。
(資料)
三田尻御茶屋(英雲荘)の歴史上の位置
1611 毛利水軍の本拠地が三田尻に定められると、この地が一躍萩城に往
来する表玄関となった。1623 3代将軍 徳川家光
1633 幕藩体制の成立」
1635 参勤交代制の確立
1651 4代将軍 徳川家綱
1654 第二代萩藩主 毛利綱広は、13200uに及ぶ藩の公館「御茶屋」を新築、参勤交代や領内巡視のときの旅館あるいは他藩の特使等を接遇する場所にあてた。
1680 5代将軍 徳川綱吉
1687 「生類憐みの令」発布
1716 8代将軍 徳川吉宗
1722 新田開発を奨励
1760 10代将軍 徳川家治
1765 第七藩主 毛利重就 鶴浜開作、大浜開作歴訪
1766 重就、宮市本陣兄部氏宅へ 大浜開作起工式(鍬初)
1765 関東農民20万人の大一揆
1768 伊勢お蔭詣り流行
1772 田沼意次、老中となる
1773 重就、左近衛権少将となり、藩政から身を引く
1776 重就、御茶屋改築開始
1782 家督を治親(はるちか)に譲り、翌年は御茶屋に移り「三田尻御殿」と命名、死去するまでここで過ごすことになる。
1783 浅間山噴火 諸国大飢饉
1783〜1788 天明の大飢饉
1789 重就死去